院長プロフィールPROFILE

院長の自分史

幼年期

私の父方の祖父は網元でした。イワシをとっていりこを作る仕事でした。いりこを作る作業場(いり場)で遊んでいた記憶があります。
時代は高度成長期、のびのびと育ててもらいました。母方の実家はサラリーマンでした。年末の餅つきが大好きでした。
かまどがあり、せいろで蒸した餅米を石臼でついて餅にしました。今でも餅は大好きです。父親は新聞の原紙(トイレットペーパーを
巨大にしたようなもの、1本500kgくらいあったと聞いています)を東京や大阪へ船で運ぶ仕事でした。
船に何度も乗せてもらっていましたが、なぜか船乗りになりたいとは思いませんでした。

小学生時代

本を読むのが好きでした。小学館の「少年少女世界の名作文学全集」をよく読んでいました。「十五少年漂流記」や「海底2万マイル」などをわくわくしながら読みました。
運動はからきしだめで、走るのも投げるのも苦手でした。ただ、生徒会長をやったりして口だけは元気でした。

中学〜高校時代

親元を離れて松山で寮生活が始まりました。親から離れることで自主独立の精神が少しずつ育っていったように思います。
体は大きいわけではありませんでしたが、柔道部に入りました。練習は真面目にしましたが、強くならず腰を痛めました。
でも最後まで柔道は続けました。中学高校はカトリック系の学校でした。クリスチャンになったわけではないですが、キリスト教に触れたのは私の精神の発育にとても大きな影響を与えました。数学や物理、化学は全くの苦手で文系を選びました。

予備校〜大学時代

東京の高田馬場にある「一橋学院」という予備校に入りまた寮生活です。
この時は真面目に勉強しました。一浪して一橋大学経済学部に入学しました。
大学では、講義は最低限しか出ないで弓道部で楽しく過ごしました。
弓道部の先輩、後輩との関わりの中で、付き合いの仕方を学びました。

社会人時代

サントリー株式会社に就職。大阪本社中央営業所で酒屋さん回りが仕事でした。
酒屋さんや先輩に社会人のいろはを教えてもらいました。人事部、福利厚生課を経て、東京へ転勤し、
購買管理課(原料部と資材部の数字をまとめるところ)で仕事をしました。サントリーには5年間勤めました。

なぜ会社を
辞めようと思ったのか

サントリー自体はとても良い会社でした。ただ、数十年勤めて仮に出世できたとして、自分がハッピーかと自問自答した時に
答えはノーでした。私は小学生の時に、人に感謝されたい仕事につきたい。それは医者だ、と決めつけていました。
なぜ感謝されたいと思ったのか今でもわかりません。

再びの予備校時代〜医学部時代

会社を退職し、高松高等予備校でお世話になりました。1日14時間(授業も含めてですが)勉強するのが目標でした。
わからないところは中学校レベルまで降りて勉強しました。2浪して徳島大学医学部に入学しました。全く運がよかったです。

勤務医時代

福岡徳洲会病院に就職しました。内科、外科、小児科、産婦人科、麻酔科、救急科を回り、3日に一回の当直を経験しました。
貴重な経験でした。その後九州大学医学部心療内科教室出身の先生の下で心療内科医として研修を重ねました。
朝、7時からの回診でした。鹿児島の沖永良部島、垂水などの離島、僻地も経験しました。文化や方言の違いなど様々な経験はとても楽しかったです。得ることの多い福岡での9年間でした。
愛媛に戻り松山記念病院に就職しました。多くのベテランの先生方のもとで精神科の勉強をさせてもらいました。

開業医になって

平成22年11月に大手町のマンションの1階で開業しました。勤務医の時代は
全く知らなかった経営ということ、これも人生の経験です。患者さんに
来ていただけることがどんなにありがたいことか痛感しました。
令和4年1月に縁あって味酒町の四国ガス第2ビルの一階に移転しました。
玄関が東向きで南からの日当たりの良い気持ちのいいところです。

イメージ:七色診療クリニック